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ハードとは。

 セガの話を、客観的かつ公平に記述することは困難です。私は元来タイトーっ子であり、セガについては(真正のセガファンの方に比べれば)片足突っ込んだ程度のファンでしかありませんが、そんな私にすら、セガというメーカー名は特別な響きをもって心に迫ってきます。

かつて、特にゲーセンにおいて、恐るべき完成度とシャープさを備えた名作の数々を、冗談抜きで怒涛のごとく連射していたセガというメーカー。ゴールデンアックスを、アウトランを、スペースハリアーを、アフターバーナーIIを、ファンタジーゾーンを、忍 -SHINOBI-を、バーチャファイターを、まるで当然のことのように我々の前に提示してみせたセガというメーカー。


そんなセガというメーカーに入れ込んだファンにとって、「ゲームハード」というものは一種の魔境でした。セガという素晴らしいメーカーが発売する、素晴らしいハード。 SG-1000。SG-3000。マスターシステムメガドライブ。どう考えてもその時代時代の最高のハードなのに、何故か理不尽な数の暴力の元、「家庭用ゲーム機のデファクトスタンダード」というエンディングにたどり着けないその様は、超高難度RPGのラストダンジョンに挑み続ける感覚にも似ていました。

そんな、「頑張って銀メダル」というようなセガにとってのハードウェア戦争において、一点の突破口が見えたように思ったのが、プレステ - セガサターン時代でした。ソフトの価格高騰を背景に、SFCの覇権は終わりを迎えつつあり、まだ任天堂の後継ハードの姿は見えない時代。ナムコは強敵とはいえ、プレステの方向性も未だ見えず、一方でこちらにはキラーソフトのバーチャファイターがあり、デイトナUSAも見えている。そして何より1994年11月当時は、まさにバーチャファイター2がゲーセンに姿を見せ始めた、セガフィーバータイムとでもいうべき時代だったのです。


その結果どうなったか、という話は、ここでは一旦置きます。ただ、一つだけ書くとすれば、セガサターンは、セガファンが期待した通りの素晴らしいハードだった」という一点について、議論の余地はないと私は考えます。


PS-SSの比較という話をした時、2Dゲームにおけるグラフィック描画力において、サターンの能力は一歩勝っていました。これは、特に対戦格闘ゲームや2DSTGの移植、ベルトスクロールアクションなどにおいて顕著に表れていました。ダライアス外伝やレイヤーセクションガンフロンティアガンバード、出たなツインビーヤッホー!やSNKの様々な格闘ゲームなど、当時セガサターンで人気を博した移植もの作品は枚挙に暇がありません。



そんな中。セガサターンオリジナルの、一つの「最強作品」が、トレジャーというメーカーからセガ経由で世に放たれました。



ガーディアンヒーローズ格闘ゲームアクションRPG。1996年1月26日、トレジャーより発売。このずっとずっとあと、2011年10月12日に、XBOX360にてHD版が発売されています。

トレジャーというメーカーについては、今では「レイディアントシルバーガン」や「斑鳩」の印象が強い人が多いかもしれませんが、当時はメガドライブでの傑作アクションゲームメーカー」という認識でした。トレジャーのタイトルに外れがないことは一部のメガドライブユーザーの間では有名で、「ガンスターヒーローズ」や「幽☆遊☆白書 魔強統一戦」については、ハマりにハマった人が多かった筈です。


特に、「幽☆遊☆白書 魔強統一戦」については、格闘ゲームとしてすごくよくできているのに、4人同時プレイでごちゃごちゃ対戦出来る」「カオスなのに、そのカオスさがもの凄く面白い」という二点で、メガドライブ全体を見回してもトップクラスの傑作といっていいでしょう。個人的には、「熱血行進曲 それゆけ大運動会」以上に対戦が盛り上がるゲームだったと思います。


その、「幽☆遊☆白書 魔強統一戦」のDNAがそのまま受け継がれた上で、二ケタ程の超絶パワーアップが施されたのが「ガーディアンヒーローズ」でした。

レトロとは。

今日書きたい内容を先に箇条書きにすると、以下のようになります。

レトロゲームの「レトロ」というのは、ゲームそれ自体ではなく、ゲームを取り巻く思い出、懐古、時代、その時の自分の環境だったりすると思います。

・だから、レトロゲームの定義は人によって変わります。人によってはプレステ2レトロゲーム機ですし、人によってはスーパーカセットビジョンは次世代機です。

レトロゲームが好き、という人にも、実際にはゲームそれ自体というより、そのゲームをやっていた頃の追憶が好き、という人もいらっしゃるようです。欲しいものはゲームそれ自体というよりあの頃ゲームを遊んでいた自分、というような。

・けど、思い出とかその頃の時代背景とか、そういうもんを取っ払っても、面白いレトロゲームタイトルは超絶面白いと思うんですよね。それこそ最新のゲームにも全く負けないくらいに。

・そういう、「最新のゲームとタメをはるようなレトロゲームの楽しさ」をたくさん伝えていきたい。


うん。大体言いたいことは言ったような気がします。


レトロゲームブログを名乗っておいてなんなんですが、少なくとも私の中では、レトロゲームの「レトロ」という部分ってあんまり重要じゃないんですよね。

私の好物のゲームをずらっと並べた時、その中にファミコン時代のゲームと、そのちょっと後くらいのゲームの含有率がかなり多いので、分かり易くレトロゲームブログと言ってはいるのですが、私にとって「レトロゲーム」とは「懐かしむ対象」ではないのです。現役で遊んでおり、現役で発掘する対象なのです。


私が今でもイーアルカンフーを週一回遊んでいるのは、単純にそれが楽しいからです。

私は今でも、今まで遊んだことがなかったファミコンのタイトルに出会って、「こんなに面白いとは!」とびっくり仰天することがあります。すいません、ドナルドランドとかアルマナの奇跡とか、正直舐めてました。


ゲーム自体の面白さ、遊びの面白さって、結構普遍的なものだと思うんですよ。鬼ごっこの、かくれんぼの面白さが普遍的なものであるように、「遊び」としてのゲームの面白さは、いつやっても変わるものじゃない。


「遊んでいた頃の、楽しかった思い出」「熱中した思い出」っていうのは、確かに面白さを強烈にブーストするスパイスではあるんですけど、それはゲームそれ自体にとってのコア要素じゃない。思い出があろうがなかろうが、サムライソードはサムライソードだし、カリーンの剣カリーンの剣です。

あるゲームを面白く感じるかどうかは人それぞれとはいえ、「ある人にとって昔面白かったゲーム」は、「今、遊んだことがない人」にとっても十分楽しめる可能性があると思うんです。


かつて、ファミコンタイトルの最大の弱点は、「見た目のチープさ」と「流通経路の薄さ」でした。しかし、スマホアプリが百花繚乱の今の時代、見た目のチープさは致命的な問題ではないし、バーチャルコンソール他さまざまな経路が出来てきた今の時代、流通経路も決して薄くはない。


とすると、今という時代は、レトロゲームは、決してレトロなだけのジャンルじゃないんだよ」ということを主張するのに、これ以上ないくらい絶好のタイミングなんじゃないかなあ、と私は思ったりするわけなんです。


最近ちょっとレトロゲーム分野が手薄でしたけれど。いちレトロゲームブロガーとして、「昔、このゲーム面白かったよね」ではなく、「このゲームを!!今遊べ!!!後悔はしないから!!!!!」という思いを、引き続き読者の皆さんに叩きつけていきたいと思う次第です。

夫婦とは。

なんかこちらの増田が話題になってたので、思ったことだけ書きます。

この記事自体については、例えば娘さんに対するスタンスがどうとか、性的な視線が気持ち悪いとか、色々な側面から批判の対象になっているようですが、私は一点、「自分と奥さんとの関係性」についてこの人が殆ど書いていないことについてちょっと気になりました。


この増田の意図自体は、ざっくり「将来に渡って、男親としての娘さんとの関係性を良好なものにしたい」という風に括ってしまっても、まあそんなに問題ないと思うんです。細かい問題はありますけど、その辺は多分ある程度切っちゃっていい。


で。これは私の感覚なんですが、子どもと仲良くする際、「奥さんと仲がいい」という要素って凄い重要というか、結構前提条件みたいなところあるんじゃないかと思うんですよ。


勿論例外もあるとは思うんですけど、少なくとも私の観測範囲内だと、「奥さんと険悪だけど子どもとは仲が良い」っていう旦那さん、一人もいません。家族全体ワンセットで仲が良いか、家庭にあまり居場所がないか、ほぼ二極化しています。


夫婦仲が良いことは、単に「子どもと仲良くする為に」ということだけに限定したとしても、


・両親の仲が良い = 家庭内が安定しているということが子どもの心理的安定性に寄与する
父親がいない間でも、子どもが父親の褒め言葉を聞ける
・子どもの成長に従って父-子ども間が一旦疎遠になったとしても、家庭内でちゃんとポジションがある



などなど、いいことづくめだと思うんです。別にそれだけの為に夫婦仲良くする訳でもありませんけど。


子どもが大きくなるにつれて、親、特に父親をある程度忌避するようになる、なんてこと、ごくごく当然のことなんですよね。自分のこと思い出せばわかるでしょう、という。程度の差こそあれ色んな子どもが通る当然の成長過程なので、むしろ該当しない方が多少心配です。


で、子どもにとっては、ある意味「安心して父親を忌避出来る」ことって結構重要だと思うんです。自分が父親と疎遠になることで、父親の居場所自体がなくなっちゃうとか、家庭内の空気が険悪化しちゃうとか、子どもの精神衛生上、いい影響が出るわきゃありません。両親の仲が良くって、家庭内が安定していてこそ、子どもも安心して精神的自立が出来るってもんなんじゃないかと。

で、安心して精神的自立が出来てこそ、更に将来、一人の大人として父親と安定した関係を築くことが出来る。多分そんな感じなんじゃないかと思うんですよね。


というか、ぶっちゃけ、奥様と仲悪かったら、子どもの反抗期に父親として家庭内でどう過ごすんだよと思わないでもないんですが。大丈夫なのかしら。


なので、将を射んとすればではないですが、まず何よりも「奥様との関係性」というものを最重視するべきなんじゃないかなあ、と思った次第です。娘と、ではなく奥様含めて家族全員でお風呂に入るべきだと思います。奥様を性的な視線で観ることはそこまで怒られないんじゃないかとも推測されます。


ちなみにしんざき家では、長男長女はそこまででもないんですが、次女は今のところかなり私べったりで、私が出社すると泣かれますし、歯磨きの時にわざわざ召喚されます。とはいえ、これもいつかは失われることだろうとは思いますし、今後とも親子の程良い距離感を模索しつつ、奥様と仲良くすることにいそしみたいと思っております。

あと、しんざき家風呂はデフォルト皆で入るんですが、最近流石に5人は手狭になってきました。どーしたものかしら。


今日書きたいことはそれくらいです。

ゲームとは。


私にもそういう記憶、あります。例えば学生時代に交わした、「飲みにいこうぜ」「すまんゲームやってる」「暇なんじゃん」という会話。自分にとっての大事な時間が、「暇な時間」とみなされることの理不尽さには結構悲痛なものがあります。

確かに、ゲームを「暇つぶし」と考えている側と、ゲームをやる時間を必死にひねり出している側とでは、根本的に時間間隔は合わないでしょうね、と思うわけです。我々ゲーマーにとって、ゲームとは「時間を作ってやるもの」なのであり、「その時間はゲームやるから」というのは「その時間は仕事するから」とか「その時間は子どもと遊ぶから」というのと少しも変わらず、大事な行動計画なのです。


「ゲームをする時間」というものは、ゲーマーにとって、必死に作った大事な時間なのです。


ただこれ、ゲームでよく聞く話ではありますが、考えてみるとゲームだけの話ではないなあ、と。自分にとって理解出来ない時間の使い方を耳にした時、結構同じような反応しちゃってないかなあ、と。


例えば、音楽を「電車の中の退屈な時間を埋めるもの」としか考えていない人にとっては、「自宅で音楽を聴いている」と聞いたとき、「暇なんだなあ」としか感じられないかも知れません。

例えば、漫画を「空いた時間に退屈しのぎとして読むもの」としか受け取れない人にとっては、「漫画読んでる」と聞いたとき、「じゃあ俺につきあえや」と思ってしまうかも知れません。


時間の使い方というのは人それぞれですし、何かをしている時の時間の価値というのも人それぞれです。当たり前のことのようですが、他人の時間の価値というものを、他人が推し量ることは簡単なことではありません。

これは、例えば夫婦間でも、親子間でも、同じようにいえることだと思うのです。

例えば、子どもが夢中になってやっていることが、親にとっては余計な手遊びに見えるかも知れません。それを「そんなことやってないで勉強しなさい」とぶった斬ってしまうのも、勿論TPOにもよるのですが、慎重に考えないといけないなあ、と。時にはじっくり待ってあげることも必要だよなあ、と。


自分には理解できない時間の使い方でも尊重できる人になりたいなあ、と。また、そういう人が増えるといいなあ、と。

そんな風に考えたわけなのです。

お金の話。

早い話、好きなものにはちゃんとお金使いましょうよ、と。


最近気付いたことなんですけど、どうも世の中には、

・何かにお金を使うというのは、単に「自分のお金が減る」ということではなく、「それを作っている人にお金が渡る」ということでもある、ということをいまいち理解していない人

ないし、

・何かを作るということは、それがゲームであれ、漫画であれ、小説であれ、動画であれ、音楽であれ、手間もかかれば費用もかかるのだ、ということをいまいち理解していない人

という方々が時折いらっしゃるようなのです。直近で何例か観測しました。

なので、上記に該当しない方には、以下の話は「当たり前じゃねーか」としか思えない内容になると思います。ご容赦ください。


特に創作の世界というものはシビアなもので、食えないアーティストはあっという間に行き詰まります。お金を稼ぐ手段がなくなるか、お金を稼ぐことによって創作の時間がなくなると、そのアーティストさんは観測出来なくなります。たとえメジャーシーンで勝負している人であろうとも、お金の周りが良くなければ、活動出来なくなるまでの期間は驚く程短いです。

これは、アーティストに限った話ではなく、あらゆるジャンル、あらゆる分野において同じことです。行き着けの店は、客があまり来なくなるとつぶれます。良く使うWebサービスは、採算がとれなくなると停止されます。そして、その「立ち行かなくなるまでの期間」というものは、部外者が想像するよりも、一般にだいぶ短い傾向があります。

非常に基本的なことではあるのですが、霞を食うだけで生きていける人間はいないので、あらゆる活動には資金が必要です。そして、その資金を提供するのは、顧客であり、ファンであり、要するに「それが好きなあなた」です。直接的、間接的(広告クリックとか)の違いこそありますが、これはどんなものでも同じです。

つまり、「それが好きなあなた」がお金を使わないのであれば、「それを作っている人」にお金は回りません。単純な話です。


なので、非常に、ひっじょーーーに基本的なことではあるのですが、

「あなたが好きな何か」に対してあなたがお金を払わないと、それを作っている人は食っていけないのだ

ということは、たまに確認しておいてもいいように思いました。


勿論、言うまでもなく、お財布事情というのは人それぞれですし、自由に出来るお金というのも人それぞれです。自分が好きなものにお金を使い込む余り、自分が餓死してしまっては流石に本末転倒ですので、適切な範囲というのは合って然るべきでしょう。

とはいえ、「「自分が好きな何か」を作ってくれる人にどうやってお金を回せばいいのか」というのは、どんな時でも考えていいテーマだと私は思います。出来る範囲でお金を使わないと、「自分が好きな何か」を支えることは出来ないんですよ、ということは、何度繰り返しても無益ではないと思うわけなのです。


私は我田引水が好きなので、「私が好きな何か」について、自分だけでなく、色んな人がお金を使ってくれるといいなあ、と思います。「私が好きな何か」を私がたくさん褒めるのは、そういう目的です。

ということなので、皆さんダライアスシリーズとメタルマックスシリーズ遊びましょう。手始めにメタルマックス2:リローデッド辺りから。損はさせません。

具体的ではない話。

今から、あんまり具体的じゃない話をします。

あるテーマがあるとします。

で、そのテーマについての意見を、てきとーに数字化するとします。どの程度極端に振れているかという尺度によって、1から10くらいまでの数字に分かれると思ってください。

可視化されやすい、というか、分かりやすくて目を引き易い意見って、やっぱり「1だ!」と「10だ!」なんですよね。1派の人と10派の人が殴りあいとか始めると、そりゃもう人目を引きます。万事、絶対評価よりも相対評価の方が分かりやすいので、周囲の人たちも、「1なのかな?」「いや、10なんじゃないか?」「10はない」「1の問題点は3つあって」といった、色々付随的な議論も始まるわけです。

特にWeb界隈では、「1か10か」という議論が注目されやすいこともあいまって、極端な立ち位置、極端な言説がもてはやされやすい土壌みたいなものがある気がします。


ただですね。往々にして、「現実的な妥協点」とか、「丁度いいところ」みたいなものは4から6くらいのところにあって、「実際に実行に移したら上手くいきました」みたいなのもその辺だったりすることが多いと思うんですよ。いや、勿論、全部が全部じゃないですが。


4から6、くらいのポジションを取る人の言説は、あんまり注目されません。場合によっては日和見ともとられますし、1派の人、10派の人、それぞれから対立陣営だと判断されて攻撃されたりします。基本的に損な立場です。

ただ、「4から6くらいに現実的な回答があるんじゃないかなー?」って考え方って、絶対必要だし、その辺のこと検討しないと現実的な解が出てこないケースって多いと思うんですよ。実際に4から6くらいの回答を求めるときに、「1か10か?」って議論は不要だったりするんです。


言うまでもありませんが、エラい単純化した話ですよ。物事、綺麗に10段階に数値化出来る程シンプルなケースは多くはありません。

ただ、考え方の一つとして、

・一見分かりやすくて目を引きやすい意見が、「実は現実的でない程極端に振れた意見かも知れない」ということ
・二つの対立陣営があったとしたら、実は現実的で妥当な回答はその真ん中くらいにあるかも知れないこと
・一見どっちつかずの日和見っぽく見える意見を言っている人が、実は一番現実的な人かも知れないこと
・必ずしも、あるテーマについて1か10かで考える必要はない、ということ



辺りは、頭に入れておいた方がいいかもなあ、と思った次第なわけです。

あ、今日書きたいことはそれだけです。

バルーンファイト。

ファミコンで「ドッグファイト」を表現した、最初のゲームなんじゃないか、と私は思うのです。


1983年~1985年あたりのファミコン市場は、一言で言ってしまうと「任天堂と愉快な仲間たち」が形成していました。ファミコン最初期の任天堂タイトルが、一から十まで一作も漏らさず佳作・名作揃いだったこと。それ抜きで、後のファミコンの隆盛はありませんでした。

前にも書いたことがありますが、1984年後期から1985年初めくらいのファミコンゲーム発売タイトルをざっと見た時、「当時の任天堂のスタッフが全員妖怪だった」という以外の結論を導出することは極めて困難です。

1984年11月2日 F1レース、同11月2日4人打ち麻雀、11月14日アーバンチャンピオン、11月22日クルクルランド、11月30日エキサイトバイク、85年に入って1月22日バルーンファイト、1月30日アイスクライマー。一本のゲームが数人、場合によっては一人で開発される時代だった、ということを考慮に入れても、一体どんな加速装置を使えばこうなるのかとしか言えない凄まじい過密スケジュールであることは議論を俟たないでしょう。当時の任天堂にはドラえもんでも実装されていたんでしょうか。


この傍ら開発がすすめられていたと考えられる、「ファミリーベーシックV3」は2月21日に発売されています。その後の、4月9日サッカー、6月18日レッキングクルー、6月21日スパルタンX、というスケジュールも今から見れば十二分に頭おかしいのですが、それでも1984年11月の妖怪スケジュールに比べれば、まだなんぼか納得感があると言っていいと思います。


強調しておきたいのは、ここで挙げたタイトルの中に、「面白くないゲーム」というものが一本たりとも含まれていないことです。F1レースは当時の基準からすれば常識外れのド迫力でしたし、4人打ち麻雀はお父さんたちの腰をファミコン前に落ち着けるのに一役買いました。アーバンチャンピオンは「対戦格闘」というもののルーツの一端を担っていますし、クルクルランドの宝探し感は鮮烈でした。「横スクロールジャンプアクション」に近いゲームを実現したエキサイトバイクは爽快感に溢れていましたし、アイスクライマーのポポとナナのジャンプ力は「お前らなんでオリンピック出ないの?」というレベルでした。

 

・何故なら、そこに「Aボタン」と「Bボタン」があったから。


ゲームシステムというのは、開発者の思想です。とりわけ「操作系」というのは、「このゲームをどう遊んで欲しいか」という、開発者の思想が如実に現れる部分です。

バルーンファイトに現れている開発者の思想というのは、私が考える限り、多分「メリハリ」だと思います。


キーワードは二つあります。「操作のメリハリ」と、「上下のメリハリ」


上記動画を見ていただければ一目瞭然ではありますが、バルーンファイトは、空を飛んで敵の風船を割っていくゲームです。プレイヤーは、風船を担いだ主人公キャラクターを縦横無尽に操って、あちこちを飛び回る敵の上をとり、敵の風船を割っていきます。


元ねたの「ジャウスト」と違って、バルーンファイトには二つのボタン操作があります。

Aボタンが、ゆっくりとしたパタパタ羽ばたき。Aボタンを押すと、プレイヤーは一瞬手を動かしてちょっとだけ浮き上がり、その後すぐ下降を始めます。

Bボタンが、高速のバタバタ羽ばたき。Bボタンを押していると、プレイヤーは水面下の白鳥かよって勢いで物凄くバタバタと手を動かし、上方向に高速のベクトルを持ちます。
まず、この二つのボタンが生み出している「操作のメリハリ」こそが、バルーンファイトというゲームのひとつの重要なエッセンスなのです。

バルーンファイトは、要所要所でかなり細かい操作を必要とされます。細かい地形を交わしたりとか。雷と敵に挟まれたところから脱出したりとか。バルーントリップでは何をかいわんやです。

一方、バルーンファイトでは要所要所で非常にすばやい動きを必要とされます。高い位置を急いで確保して、敵の頭上を取ったりだとか。逆に、敵に頭上をとられた場面から急いで逃げ出したりであるとか